Genius 1 Read On! 7 単語の意味&本文和訳 保存倉庫
Read On! 7
【 訳者からひと言 】 本文は2002年のワールドカップ日韓共同開催の前に書かれたものと思われます。今読むと、時制に不適合な感があります。その場合には、適宜、現在形の部分を過去形で訳しています。
Making Peace Through Soccer
サッカーを通じて平和を作る
2002年国際サッカー連盟ワールドカップは韓国と日本で始まっています(→開催されました)。W杯には国家の威信に関する問題がたくさんかかっていますが、森田太郎さんはサッカーを国家主義の道具としてではなく、民族の間の緊張を和らげる手段と見なしていました。森田さんは2002年の春に静岡県立大学を卒業したばかりでしたが、遠く離れたサラエボで多民族の子供たちから成るサッカーチームを支援していました。サラエボはボスニア・ヘルツェゴビナの首都で、1992年から1995年にかけての3年半の内戦にまだひどく苦しんでいました。
1999年2月、サラエボを再建する援助をしていた非政府組織(NGO)のボランティアとして1か月の滞在期間中に、森田さんは、地元の子供たちがサッカーをしているときに、何て情熱的で楽しそうに見えるのかに気づきました。森田さん自身がサッカーの公式審判だったこともあって、お互いに親しみを持つのが難しいとわかっている隣人たちの心を一つにするためにサッカーを使うという考えを、森田さんは思いつきました。そして、1999年12月に、いろんな民族(グループ)を一緒にした子供たちのサッカーチームをサラエボで作るという森田さんの計画が秋野豊賞を受賞しました。秋野豊賞はユーラシア(大陸)の紛争地域で国際的な奉仕活動を支援するために創設されたものです。
Starting Up a Multiethnic Team
多民族チームを結成すること
森田さんは助成金の50万円を持って、2000年2月にサラエボに戻り、前の年に森田さんが一緒に活動していたNGOの協力を得て、多民族サッカーチームF.K.クリロをスタートさせました(「クリロ」とはセルボ・クロアチア語で「翼」を意味します)。ボスニア・ヘルツェゴビナが分割されている2つの地域、すなわち、ボシュニャク人とクロアチア人によって構成されるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人から成るスルプスカ共和国の2つの地域から集まってきた子供たちが次々に(チームに)加わりました。民族の間のより良い関係を築き上げるという目的よりも、サッカーをしたいという願望から(みんな)集ってきたのです。森田さんはコーチとして2人の人に協力してもらいました。ボスニアの学校の体育教師とセルビア人の運転手でした。
練習はサラエボ市の(ボシュニャク人・クロアチア人地区とセルビア人地区の)両方の側で行なわれる予定でしたが、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の子供たちは最初のうちはセルビア側に行くことを拒否しました。「もしセルビア人が僕たちを見つけたら、あいつらは僕たちをぶん殴って、殺して(さえ)しまうかもしれない」と言ったり、「僕のパパは内戦中にセルビア人に殺されたんだ」と言ったりしていていたものでした。14歳のボシュニャク人イスラム教徒のメンバーがスルプスカ共和国での練習に参加するのに同意したときには、森田さんはほとんど希望を失いかけていました。(向こう側に)渡って行く車の中で、普段はユーモアたっぷりの男の子は恐怖で黙りこくっていました。でも練習の後で、「(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の)イリジャで練習するのと同じだった」と元気よく言いました。1人の十代の若者の勇気が、森田さんのプロジェクトを1歩前進させるのに役立ったのでした。
もう1つの問題は、チームのことを親に話さないでF.K.クリロに参加していた子供たちたちがたくさんいたという事実によってもたらされました。親御さんたちの理解がなければ、森田さんが努力してもうまく進まないと感じて、森田さんと他のスタッフはメンバー1人ひとりの家を訪問して、親御さんたちにプロジェクトの目的が説明してある同意書にサインしてもらうのに3週間かかりました。民族間の悪い感情は世代を超えて続くべきではないと言って、プロジェクトを支援することにすぐに同意してくれる親御さんたちもいましたが、その一方で、自分たちの子供たちを「殺人者の住む場所」に行かせるわけにはいかないと言って、スタッフと話をしようとさえしなかった親御さんたちもいました。
2か月の滞在期間中にチームを何とか軌道に乗せたところで、森田さんは2000年4月に日本に帰ってきました。サラエボで同じボランティアだった数人の友人と一緒に、森田さんはF.K.クリロを支援するためのNGOサラエボ・サッカー・プロジェクト(SFP)を立ち上げました。それ以来、自分の勉強と日本でのSFPの活動の合間を見つけては、チームの進み具合を見るために、森田さんは数回サラエボを訪れました。
Strengthening the Local Network
地元のネットワークを強めること
開始から2年経って、今では(→スタートから2年経った頃には)F.K.クリロは35人の選手を抱えていました。練習は毎週土曜日にはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦で行われ、毎週日曜日にはスルプスカ共和国で行なわれました。親御さんたちのクラブはチームの活動計画を立てるために2か月ごとに会合を開いていました。さらに、2002年1月にはF.K.クリロによって組織された、サラエボの両方の側のクラブチームの参加を得て、リーグ戦が始まりました。4月には、森田さんはより良い民族関係に向かっての自分の構想をまとめた『サッカーが越えた民族の壁』(Overcoming Ethnic Boundaries Through Soccer)というタイトルの本を出版しました。
F.K.クリロとSFPの活動はすべて順調に進んでいるように見えますが、森田さんは実はとても心配しています。森田さんは次のように説明しています。「私自身を含めて、私たちのうち誰もプロではありません。私たちはみんな精神的なレベルで結びついていますが、F.K.クリロの活動を支えるための強い組織的な基盤をサラエボに持っているわけではないという点が気がかりです」 現在、チームのすべての経費は、F.K.クリロ支援者クラブの会員から集められた会費や、フリーマーケットの売り上げや、助成金といった日本からの寄付によって賄われています。森田さんは言います。「私は地元の人たちからのもっと大きな参加があればいいと思っています。資金集めを含む活動での地元の方たちの積極的な役割を果たしてもらいたいと思っています」 森田さんは来年の春にはサラエボに「帰国」する予定です。今度は少なくとも1年と(いうように前回よりも)長く滞在し、サラエボでの(地元の人たち自身の強固な)組織を築き上げることに専念する計画です。
今年の(→2002年の)ワールドカップに向けて、森田さんは試合を見に行って、クロアチア共和国を応援することを楽しみにしています。「もともとイリジャ出身のマリオ・スタニッチ選手の旗を作ろうと考えています」と森田さんは言っています。
【 訳者からひと言 】 本文は2002年のワールドカップ日韓共同開催の前に書かれたものと思われます。今読むと、時制に不適合な感があります。その場合には、適宜、現在形の部分を過去形で訳しています。
Making Peace Through Soccer
サッカーを通じて平和を作る
2002年国際サッカー連盟ワールドカップは韓国と日本で始まっています(→開催されました)。W杯には国家の威信に関する問題がたくさんかかっていますが、森田太郎さんはサッカーを国家主義の道具としてではなく、民族の間の緊張を和らげる手段と見なしていました。森田さんは2002年の春に静岡県立大学を卒業したばかりでしたが、遠く離れたサラエボで多民族の子供たちから成るサッカーチームを支援していました。サラエボはボスニア・ヘルツェゴビナの首都で、1992年から1995年にかけての3年半の内戦にまだひどく苦しんでいました。
1999年2月、サラエボを再建する援助をしていた非政府組織(NGO)のボランティアとして1か月の滞在期間中に、森田さんは、地元の子供たちがサッカーをしているときに、何て情熱的で楽しそうに見えるのかに気づきました。森田さん自身がサッカーの公式審判だったこともあって、お互いに親しみを持つのが難しいとわかっている隣人たちの心を一つにするためにサッカーを使うという考えを、森田さんは思いつきました。そして、1999年12月に、いろんな民族(グループ)を一緒にした子供たちのサッカーチームをサラエボで作るという森田さんの計画が秋野豊賞を受賞しました。秋野豊賞はユーラシア(大陸)の紛争地域で国際的な奉仕活動を支援するために創設されたものです。
Starting Up a Multiethnic Team
多民族チームを結成すること
森田さんは助成金の50万円を持って、2000年2月にサラエボに戻り、前の年に森田さんが一緒に活動していたNGOの協力を得て、多民族サッカーチームF.K.クリロをスタートさせました(「クリロ」とはセルボ・クロアチア語で「翼」を意味します)。ボスニア・ヘルツェゴビナが分割されている2つの地域、すなわち、ボシュニャク人とクロアチア人によって構成されるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人から成るスルプスカ共和国の2つの地域から集まってきた子供たちが次々に(チームに)加わりました。民族の間のより良い関係を築き上げるという目的よりも、サッカーをしたいという願望から(みんな)集ってきたのです。森田さんはコーチとして2人の人に協力してもらいました。ボスニアの学校の体育教師とセルビア人の運転手でした。
練習はサラエボ市の(ボシュニャク人・クロアチア人地区とセルビア人地区の)両方の側で行なわれる予定でしたが、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の子供たちは最初のうちはセルビア側に行くことを拒否しました。「もしセルビア人が僕たちを見つけたら、あいつらは僕たちをぶん殴って、殺して(さえ)しまうかもしれない」と言ったり、「僕のパパは内戦中にセルビア人に殺されたんだ」と言ったりしていていたものでした。14歳のボシュニャク人イスラム教徒のメンバーがスルプスカ共和国での練習に参加するのに同意したときには、森田さんはほとんど希望を失いかけていました。(向こう側に)渡って行く車の中で、普段はユーモアたっぷりの男の子は恐怖で黙りこくっていました。でも練習の後で、「(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の)イリジャで練習するのと同じだった」と元気よく言いました。1人の十代の若者の勇気が、森田さんのプロジェクトを1歩前進させるのに役立ったのでした。
もう1つの問題は、チームのことを親に話さないでF.K.クリロに参加していた子供たちたちがたくさんいたという事実によってもたらされました。親御さんたちの理解がなければ、森田さんが努力してもうまく進まないと感じて、森田さんと他のスタッフはメンバー1人ひとりの家を訪問して、親御さんたちにプロジェクトの目的が説明してある同意書にサインしてもらうのに3週間かかりました。民族間の悪い感情は世代を超えて続くべきではないと言って、プロジェクトを支援することにすぐに同意してくれる親御さんたちもいましたが、その一方で、自分たちの子供たちを「殺人者の住む場所」に行かせるわけにはいかないと言って、スタッフと話をしようとさえしなかった親御さんたちもいました。
2か月の滞在期間中にチームを何とか軌道に乗せたところで、森田さんは2000年4月に日本に帰ってきました。サラエボで同じボランティアだった数人の友人と一緒に、森田さんはF.K.クリロを支援するためのNGOサラエボ・サッカー・プロジェクト(SFP)を立ち上げました。それ以来、自分の勉強と日本でのSFPの活動の合間を見つけては、チームの進み具合を見るために、森田さんは数回サラエボを訪れました。
Strengthening the Local Network
地元のネットワークを強めること
開始から2年経って、今では(→スタートから2年経った頃には)F.K.クリロは35人の選手を抱えていました。練習は毎週土曜日にはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦で行われ、毎週日曜日にはスルプスカ共和国で行なわれました。親御さんたちのクラブはチームの活動計画を立てるために2か月ごとに会合を開いていました。さらに、2002年1月にはF.K.クリロによって組織された、サラエボの両方の側のクラブチームの参加を得て、リーグ戦が始まりました。4月には、森田さんはより良い民族関係に向かっての自分の構想をまとめた『サッカーが越えた民族の壁』(Overcoming Ethnic Boundaries Through Soccer)というタイトルの本を出版しました。
F.K.クリロとSFPの活動はすべて順調に進んでいるように見えますが、森田さんは実はとても心配しています。森田さんは次のように説明しています。「私自身を含めて、私たちのうち誰もプロではありません。私たちはみんな精神的なレベルで結びついていますが、F.K.クリロの活動を支えるための強い組織的な基盤をサラエボに持っているわけではないという点が気がかりです」 現在、チームのすべての経費は、F.K.クリロ支援者クラブの会員から集められた会費や、フリーマーケットの売り上げや、助成金といった日本からの寄付によって賄われています。森田さんは言います。「私は地元の人たちからのもっと大きな参加があればいいと思っています。資金集めを含む活動での地元の方たちの積極的な役割を果たしてもらいたいと思っています」 森田さんは来年の春にはサラエボに「帰国」する予定です。今度は少なくとも1年と(いうように前回よりも)長く滞在し、サラエボでの(地元の人たち自身の強固な)組織を築き上げることに専念する計画です。
今年の(→2002年の)ワールドカップに向けて、森田さんは試合を見に行って、クロアチア共和国を応援することを楽しみにしています。「もともとイリジャ出身のマリオ・スタニッチ選手の旗を作ろうと考えています」と森田さんは言っています。
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